緋色の残影

 
  ―  4  ―


 それは、夢の続き。
 泣き虫な姪が笑顔になり、その小さな手をつないで彼女が当初、向かおうとしていた場所へと行こうとした時のことだった。

                              しびきゅう
 突然、ドオンと何かが爆発する音がした。紫微宮のどこかが何者かに襲撃されたのだろう。遠くから、怒号が聞こえる。
「大変だわ……」
 その音を聞いた悠里は咄嗟に姪を抱き上げ、中央にある寝殿へと駆け出した。
 しかし、あと数歩で寝殿へたどり着くというところで、彼女の行く先に――その行く手を阻むように――黒い影が、音もなく静かに舞い降りる。
「!」
 悠里の目の前に現れたのは、漆黒の髪を背中まで伸ばした、全身黒ずくめの青年だった。
 その背には漆黒の翼があり、病的に青白いその顔は表情がなかったが、金色の瞳だけが爛々と輝いていた。
「あなた、だれ?」
 背筋に悪寒を感じながら、誰何する。腕の中の童女も、何かを感じたのか、身体をこわばらせていた。
「私は、アスモデ」
「! あなたまさか――」
 その名を聞いて、悠里は瞠目する。
「…………」
 緊迫した状況だというのに、アスモデと名乗った青年は悠里を見つめたまま惚けてしまったかのように微動だにしない。
 アスモデが何も行動を起こさないのを見て、警戒しながら悠里は後ずさる。
 後ずさる悠里をアスモデは不思議そうに眺めていたが、彼女が守るように抱いていた夏蓮に気付くと忌々しそうに見――大股で近づいてきて無言で引き剥がしにきた。腕の中の夏蓮は、恐怖で声も出なかった。
「やめて!」
「子供なんて嫌いだ」
 抵抗もむなしく夏蓮は引き剥がされてしまい、アスモデは渡り廊下に面した庭園へとゴミでも投げるかのように放り投げた。その小さな身体は、手入れされた庭園の芝生へと落下し、軽く何回かバウンドして転がった。
「!」
 悠里は声にならない悲鳴を上げ――姪の下へ駆け寄ろうとしたが、アスモデに腕を取られて、阻まれた。
「離して!」
「やだ」
 腕を振りほどこうと暴れる悠里に、子供のような口調でアスモデは拒む。
「うわーーん!」
 庭園に投げ出された姪が、火が着いたように泣き出した。悠里はその声に反応して、自分を捕らえる腕を振り解こうと更に必死になる。
 数瞬後、掴まれていた腕が運良く外れ、アスモデから離れることが出来たものの、悠里は勢い余って石畳の床に倒れこみ、身体を強く打ち付けてしまった。
「ごめん」
 倒れこんでしまった悠里を吃驚したような表情で見下ろし、アスモデは倒れた悠里を助け起こそうとするのだが、彼女はその手を拒んで起き上ると夏蓮の方へ行こうとした。
 アスモデはそれを阻もうと腕を伸ばすのだがその刹那――その腕は予想の動きをした。
「あ……」
 アスモデは、自分のやったことが信じられないという表情をし――その一方、悠里は突然の衝撃に目を見開いた。
「なん、で?」
 自分の左手が悠里の背中を貫いるのを見、アスモデが茫然とつぶやく。
 悠里は背中を貫かれた状態のまま前のめりの体勢になっていたが、気管をせり上がってきた鮮血をごほりと吐いた。
「なんでこうなる?」
 つぶやきながらアスモデは、悠里の背中に埋まった自分の手を見――その先から滲み出てくる血を見る。そうしている間にも、ぐったりとしている悠里は出血した影響で血の気をなくしていく。
 その時、背後から女の悲鳴が上がり、アスモデは振り返る。
 その視線の先には侍女の有弧楼の姿があり、彼女はアスモデの手が刺している悠里の姿を見て叫んだ。
 サティー
「紗灯さま!」
 アスモデは我に返ったように紗灯と呼ばれた悠里の背に埋まった手を抜きとり、現れたときと同様に音もなく飛び立った――。

 

 

「!」
 背中から腹部にかけて鈍い痛みを感じて、悠里は飛び起きた。
「どうかなさいましたか?」
 有弧楼の心配そうな声が傍らからし、悠里は彼女のいるほうを見た。
 あれからずっと、傍に居てくれたのだろう。
「何だか、嫌な夢を見て……」
「夢、ですか?」
 問いかけに、悠里はうなずく。
「覚えていないのだけど――」
 目覚めると覚えていない夢を見て、悠里は無意識にだが背中と腹部をさする。
 有弧楼はそれを見逃さず、彼女がさすっている場所に気付くと、一瞬顔をしかめた。
「そうですか……」
 わずかな瞬間だったので、悠里はその表情の変化には気付かず、有弧楼自身も表情を平静なものへと戻していた。
「気分はいかがですか?」
「……大丈夫」
「よかった」
「あれからどれくらい?」
 悠里の問いかけの意味を悟り、有弧楼は答える。
「こちらの時間で三時間ほどです」
「アルコルさんは、休まれたりしないんですか?」
 有弧楼がずっと悠里を診てくれていることを思い出し、問いかける。
「私たちは、睡眠を取らなくても平気なのです。必要になる時もありますが――中には睡眠を趣味にしている者もいます」
 意外な答えだったので、悠里は「へぇ〜」と関心を示す。
「眠りを必要としないのは、この太極の世界に満ちている『気』のお陰かもしれません」
「気、ですか?」
 漠然とした話を聞いて目をぱちくりとさせる悠里に、有弧楼は切り出す。
    ショクイン
「燭陰の話は覚えていらっしゃいますか?」
「太古の龍の?」
「はい。燭陰はこの太極を創り、眠りに就いた今も、その力を――エネルギーを世界に放出しているといわれています。私たちはそれを『気』と呼んでいるのです」

                                                                                                                すうざん                                         ガウロンチュアン
 有弧楼の話だと、燭陰が眠る太極の中心、嵩山を取り囲むように九龍川と呼ばれる川が流れているのだという。
 九龍川は名前の通り、放射線状に九つの支流に別れて太極を流れているのだが、燭陰を護る結界の役割をしているのと同時に、燭陰の膨大なエネルギーを大地へ拡散する役割も持っていた。
 大地へ拡散された力はやがて空気中へと溶け込み、それを呼吸などで吸収することで、太極に住むものたちや、動植物の活力にもなっているのだという。
「【蝕】を起こすから凄い悪いものだと思っていたけど、凄いんですね」
 悠里の素直な感想に、有弧楼は苦笑する。
「ある側面では悪いものであっても、別の面では善いものでもあり、すべてが表裏一体に存在していますので」
「必要悪、ってことですか?」
「少し意味合いは違いますが、粗方そうですね」
 話を聞いた悠里は、これでもわかりやすく説明してくれたのだろうと思いながら、しみじみつぶやく。
「知れば知るほど、不思議な世界……」
「そうかもしれませんね」
 ここは生者の世界でもあり、死者の世界でもありますから――。
「え?」
 ポツリと洩らされた有弧楼のつぶやきが聞き取れず、悠里は聞き返す。
「いえ、何でもありません」
 有弧楼は言葉を濁し、話の矛先を変えるように口を開く。
「また長話をしてしまいましたね。悠里様、お疲れではありませんか?」
「いえ、全然。もしかしたら、さっき聞いた『気』のお陰なのかも」
 元気に返事をする悠里を見て、嬉しそうな顔をする有弧楼。
「そうですか。――では、庭園の散策はいかがですか? ずっと寝ているばかりなのも退屈でしょう?」
「いいですね!」
 悠里はその提案を聞き、目を輝かせた。
 その後、有弧楼に寝衣を着替えましょうと言われ、悠里は初めて自分がこの世界の寝間着を着せられていたことに気
                                                                                                     パオ
付いたのだが、着せられていた寝衣から袍と呼ばれる正装に近い中華服に着替えさせてもらった。
 その袍は、シルクの淡い緋色の生地に金糸で花と竜が刺繍されたもので、悠里の身体に合わせてしつらえられたのではないかと思うくらいフィットしていた。その下に、濃い緋色のズボンを穿く。
「私って、こんな顔していたんだっけ?」
 着替えた後、「御髪なども直しましょう」と有弧楼に促されて繊細な装飾を施された鏡台の椅子に腰掛けた悠里は、鏡に映る自分を見て思わずつぶやく。
 背中まである褐色の髪に亜麻色の瞳をした、日本人離れした外見。しかし、その造作は見覚えがあるような気がして、内心首をかしげる。
 記憶がないせいなのか、それとも――この世界へ飛ばされた影響なのだろうか、鏡に映る自分の姿に違和感の様なものを感じた。
「今は違和感があるかもしれませんが、だいぶ回復されていますよ」
 悠里の内心を察したのか、鏡越しに有弧楼が語りかける。
「最初は紗灯様――紗灯様というのは、悠里様が生まれ変わられる前のお方の名前なのですが、紗灯様と同じ金褐色の髪のお色でした」
 朱塗りのクラッシックな櫛で悠里の髪を毛先から丁寧にすいていきながら、有弧楼は語る。
「そうだったんですか?」
「はい。ここは――太極は、生者と死者の世界の中間地点のようなもの。ですから、人の世界へ転生した魂が還ってくる時は、最初に産まれた時の色をまとってここへ還ってきます。悠里様の場合は、紗灯様のお姿が最初だったので、その色彩を強く引き継いでいらっしゃるのでしょう」
 何気に凄いことを話されたような気がして、悠里はふと冷静になる。
(ここは単なる『異世界』だと思っていたけど、私はサティーという人の生まれ変わりで、それでいて夏蓮さんたちの伯母さまで、ここが生と死の中間地点っていうことは――)
 導き出された答えを、悠里は有弧楼にぶつけていた。
「私って、死んじゃってるんですか?」
 有弧楼は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、「違いますよ」とやんわり否定した。
「悠里様はまだここへ来る時期ではなく、ただ単に『蝕』の影響でこちらへ来てしまっただけのようです。本当にこちらへお戻りになっていたら、こうやってすぐにお話をしたりは出来ないはずですから」
 有弧楼の口ぶりだと、生まれ変わってもそう簡単にはいかないらしいことが伺えた。有弧楼は言いながら、悠里の髪を高く結い、鏡台の引き出しに入っていた金の細工のかんざしを挿していく。
「人の世界で生を終えて戻られたとしても、手続きがあるのです。非道なほど悪事を働いた者には十王による裁判がありますし、何らかの悔いが色濃く残っていたら、また人の世界へ生まれ直さなければならなくなります。生まれ直すときなどは、それまでの準備期間やなんやらと、色々と事細かな定めがありますから」
「複雑なんですね……」
 鏡の中で、自分の髪が宮廷の女性みたいな形へと変化していくのを見ながら、悠里は思わず他人事のように言ってしまう。
「そうですね。でも、ある程度の法や秩序は必要ですから」
 髪を結い終えた有弧楼は櫛を仕舞いつつ、別の棚から口紅のパレットを取り出して中から筆を取ると、悠里の顔を見てからパレットにある紅の色を見比べ、何色かを筆にとってパレットの空いている部分で混ぜた。
 気に入った色味になると、有弧楼は「失礼します」と言って屈むと、悠里の唇に紅を刷く。
「これで少し、顔色も明るく見えるかと」
 有弧楼が離れ、紅を塗られた鏡の中の自分の顔を見た悠里は思わず口にしていた。
「口紅塗っただけなのにこんなに印象が変わるなんて、アルコルさんてすごい」
 ある意味病み上がりだった悠里の顔色はあまりよろしい方ではなかったのだが、紅を刷く前と後ではかなり印象が違ったものになった。
「歓んでいただけけてよかったです」
「アルコルさんありがとう!」
 素直な感謝を向けられて、有弧楼は満足げに笑みを深くする。
「それでは、散策に参りましょう」

 

 

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