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 そこは、星の光のない宇宙空間に似た暗闇の世界――。
 上も下もわからない暗く何も見えない闇の中を、『彼女』は漂っていた。
 時折、何処からともなく現れて飛来してくる光の塊が、彼女の中を通り抜けていく。
 それは小さな流星のような形をしていたが、それらはすべて彼女の『記憶』だった。
 塊のそれぞれが、生誕から最期に至るまでの一つの物語を形成しており、それが彼女の中を通るたびに走馬灯のように流れていく。
 彼女はただ、ぼんやりと自分の『記憶』たちを見ているだけだったが、光が通り過ぎた直後は必ず、針を刺したようなチクリとした痛みを残していった。
 なぜなら、彼女の最期は毎回、必ずといっていいほど、痛みを伴うものであったからだ。
 ある時は、信じていた者から裏切りの刃を受け、ある時は嫉妬による刃を、ある時は、見知らぬ人間の凶刃に倒れた。
 彼女は毎回、ある意味円満な人生を送っていたのだが、その最期は必ずといっていいほど何者かにその命を奪われてしまう。
 しかし、それはすべて過ぎ去ってしまった過去の出来事でしかなく――果てしなく続くように思われた暗闇の世界も、その出口にたどり着いたのか、光が見えた。
 彼女――悠里の意識はその光に吸い込まれ――程なく目覚める。



「え……?」
 目覚めると、見知らぬ天井が見えたので思わず声を上げてしまった。
 全く記憶にない、見知らぬ場所――しかも、オリエンタルな天蓋付きのベットに寝かされていた。
「ここ、どこ……?」
 現状が把握できずにいると、誰か近くにいたのか、「気付かれましたか?」と声をかけられた。
 声がした方を見ると、黒ずくめの女性がベットサイドの椅子に腰掛けていた。
 ややきつめの琥珀色の目が印象的な、自分よりも少し年上と思われる30代前半くらいの、黒髪の女性。
 昔の中国の、宮廷に仕えている女性が着ているような衣装(黒ずくめではあったが)を纏っており、とても整った顔立ちをしていたのだが――その女性の頭についているものに思わず目が行ってしまった。
(え、犬耳?)
 悠里の目の前にいるのは、黒狐の化身だったのだが、そこまでわかるわけもなく――コスプレイヤーを見てしまってどうリアクションをとっていいかわからず、固まる。
 そんな悠里の心理状況を知らない女性は、形の良い唇を開き、「お加減はいかがですか?」と心地よい声で聞いてきた。
 その表情と声色から、とても心配されていることに気付いた悠里は、内心戸惑いながら「大丈夫です……」と答える。

「それはよかった」
 心底ホッとされ、悠里は思わず見つめてしまう。
 見知らぬ場所の、見知らぬ女性。
 なのに、こんなにも気を遣われてしまう理由がわからなかった。
「…………」
 見つめすぎたのか、黒ずくめの女性はゆっくりと瞬きをし、「何かご所望でも?」と尋ねてきた。
(やばい、ガン見しすぎた!)
 内心、慌てながら、悠里が起き上がろうと身じろぎすると、「まだいけません」と、止められる。
「え?」
「魂魄が安定されていないようですから、安静になさってください」
 普段聞きなれない単語だったが、ファンタジー小説とかが好きな悠里は、思わず聞き返していた。
「魂魄って――魂のこと?」
「はい。貴女様は【蝕】の影響で、魂魄だけこちらの世界へと飛ばされてしまったようなのです。飛ばされたときの衝撃がまだ魂魄に残っているようなので、今動かれるとお身体が軋むように痛みを感じられるかと……」
「…………」
 言われてみると、身体を少し動かすだけで節々に痛みを感じた。
 大怪我をして、包帯でぐるぐる巻きにされているわけでもないのに、いつの間にかそんなにすごい状態になっていたのだと知り、悠里は思わず絶句する。
                   アルコル
「申し遅れました。私は有弧楼と申します」
「私は、ゆう――」
 悠里は自分の名を言いかけて、名前以外のことを覚えていないことに気付いた。
 犬耳やファンタジー小説など、日常生活や知識に関することはすらすら出てくるのに、自分に関することが全く出てこない。
「アルコルさん……」
「はい」
「私、悠里という名前なのですけど、その名前しか覚えていなくて――」
 悠里の告白を聞いた有弧楼はゆっくりと瞬きし、驚いたような顔をした。
「そうですか。ご記憶を……」
「はい」
 悠里がうなずくと、有弧楼は何か思うことがあったのか、「失礼します」と断りを入れてから身を乗り出し、衣装の長い袖が悠里の顔にかかったりしないように右手の裾を左手で押さえると、右の掌を悠里の額の辺りにかざした。
「…………」
 掌の動きを目で追っていた悠里は、かざされた掌から淡い紫色の燐光のようなものが出ているのが見えた。
 その燐光からは陽だまりのような暖かさを感じ、その燐光と共に何かがじんわりと額から入ってくる感覚がした。悠里はなぜか安心感を覚えて、目を閉じた。
「…………」
 静かな寝室に、沈黙が訪れるものの、その沈黙も数秒しないうちに有弧楼が身じろぎする気配で破られた。
「ユウリ様……」
 呼びかけられて、閉じていた目を開く。
 額にかざされていた手は元に戻され、有弧楼の琥珀色のやさしい光を灯した目と合った。
「こちらに飛ばされた影響で一時的にそうなっただけのようです。なので、心配はご無用です」
「そうなんですか?」
 有弧楼は、うなずいた。
「はい。一時的なものですから、回復されれば記憶も元に戻るでしょう」
「よかった」
「私は薬師でもありますので、何か気になることがございましたら、何なりとお申し付けください」
「アルコルさん、ありがとうございます」
「お礼などもったいないことです。私は、薬師として当然のことをしたまでです……」
 何故か恐縮されてしまい、悠里はこれ以上何も言えなくなってしまった。
 そのとき、コンコンと寝室の扉をたたく音がし、その音に気付いた有弧楼は「お入りください」と答え、身体の向きを変えた。
 カチャリと扉が開く硬質な音がした後、人が入ってくる衣擦れの音がして、悠里も音がした方に視線を向けたものの、有弧楼の後ろ姿しか目に入らなかったので、第三者の姿は見えなかった。
「客人の意識が戻ったようだな」
 朗々とした女性の声が、有弧楼の向こうからした。
「はい。先ほどお目覚めになられました。ただ――」
「ただ?」
「今生のお記憶をなくされています」
「そうか」
「はい」
 有弧楼は座っていた椅子から立ち、入ってきた女性に席を譲ると、後ろの方へ下がってしまった。
「お初にお目にかかる。私は碧霞元君と申す者。この度は難儀であったな」
 悠里の目には、一目見ただけで地位の高い人物なのだろうと解る、金糸銀糸の刺繍の入った中華風の白いドレスを纏った妙齢の女性の姿が映った。
「いえ、そんな。ただ、何が何だかわけがわからないだけですけど」
「そうだろうな」
 神々しく見えるのに、包容力のある慈しみのある翡翠の瞳で見つめられ、どぎまぎしてしまう。
「私の名は多羅だ。そなた、名前はなんと言う?」
「悠里です」
「ユウリというと、日本の名だな。漢字ではどう書く?」
「悠久の悠に、村里の里で、悠里です」
「悠里。はるかな道のり、か……」
 悠里の名を口にした後、多羅は感慨深げにぼそりとつぶやく。
「え?」
「いや、何でもない。――そうそう、皆は私のことを碧霞元君と呼ぶが、悠里には多羅と呼んでもらいたい」
 碧霞元君と言う名を聞いたときから、どこかで聞いたことがあるような気がしていたが、悠里はそれをようやく思い出した。
 碧霞元君といえば、道教の神様の名前だった。
 今はどうかはわからないが、昔の中国では名前は親しいものしか呼べなかったはずで、彼女の『碧霞元君』という呼び名は称号か官職名か何かだということがわかり、悠里は思わず訊いていた。
「名前で呼ぶのは、不敬になるんじゃないですか?」
「気にせずともよい。悠里、そなたには許す」
「いいんですか?」
「よい。私がよいと言うのだから、良いのだ」
「わかりました……」
 根負けしたように悠里が承諾すると、多羅は満足げにうなずいた。
「そういえば――」
「何だ?」
 悠里は少し逡巡した後、気になったことを聞いていた。
「こちらの世界、ってことは、ここは私の知っている世界じゃない、ってことですよね?」
「そうだな」
「実際、何が起こったかはわからないけれど、【蝕】というものの影響でこっちに魂が飛ばされたんだとアルコルさんは言ってましたけど――」
                      たいきょく          タイチー
「うむ。【蝕】というのは、この世界――太極と書いて、『太極』と呼ぶのだが、この太極の中心で眠る太古の龍が起こす現象なのだ」
「太古の龍?」
 この世界の名と、『太極』に飛ばされてきた原因の名を聞き、悠里は目をゆっくりと瞬かせる。
「燭陰という、世界を創ったとされる巨大な龍なんだが、眠りに付いた後にも地下深くで活動しているらしく、燭陰の発するエネルギーが、隔たった世界の境界をつなげ、時々混乱をもたらすのだ。奴は、はた迷惑な活火山みたいなものだからな」
 多羅の口ぶりから、どうしようもない自然現象なのだろう、ということは伺えた。
「あの……」
「む?」
「マレビトって、何ですか?」
「客人は、そなたのように【蝕】の影響を受けてこちらに飛ばされてきた人間を指す言葉だ。滅多に起こらないことだから、『たぐい稀な人』が転じて、客人と呼ぶようになったのだろう」
 嫌な顔もせずに、丁寧に答えてくれる多羅を見上げて、悠里は「すみません、質問ばかりして」と謝る。
「かまわんよ。――しかし、そろそろ休む方がいだろう」
 身体に障るからな。
 そう言いつつやわらかく微笑して、多羅は右手を悠里の目の前にかざした。
 その掌から暖かな波動を感じた悠里は、途端に抗いがたい睡魔に襲われ、眠りに落ちた。
「…………」
 多羅は眠る悠里を見下ろし、ポツリとつぶやく。
 これからどうしたものかな、と。
「あれにはそのうち伝わるだろうが、問題は――」
 カレン
「夏蓮様ですね」
 後ろに控え、二人の会話にそれまで介入しなかった有弧楼が口を開いた。
「そうだな。勘のよい子だから、悠里を見た瞬間、すぐに判っただろう」
 多羅は、この紫微宮へ着いた時に出迎えた姪の姿を思い出していた。
「夏蓮様は、一番懐かれておいででしたから」
「うむ。責務に忙しい母親以上に懐いていたし、好いておったようだからな」
 二人は顔を見合わせることなく、それぞれ小さく笑った。
「夏蓮様ももう大人です。解ってくださると思います」
「そうだといいが」
         ヤミー
「最近は、夜魅様の跡を継がれるべく、日々鍛錬なさっておいでですし」
「似たもの母娘だからな、あの二人は」
 背後にいる有弧楼の笑う気配を感じながら、多羅は椅子から腰を上げ――振り返ると出口の扉へと歩き出す。磨きあげられた淡い翡翠色の大理石の床に多羅の靴音がコツコツと響き、有弧楼は半身を多羅に向けながら、先回りするように扉へ進む。
「夏蓮が関わってきたら、好きなようにさせてやれ」
「かしこまりました」
「あと、警備も今以上に厳重に。何故か、嫌な予感がする」
「手配いたします」
 そう答えながら、有弧楼が部屋の両開きの重厚な扉を片方開く。扉の向こうの廊下では、多羅の従者の十六夜が控えるように待っていた。
 扉をくぐり、廊下へ出たところで多羅は立ち止まり、振り返るとベットに眠る悠里に視線を止め、有弧楼を見た。
「有弧楼、後は頼む」
「はい」
 有弧楼は両手を胸の前で組み合わせて拱手し、多羅を見送った。

 

 

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