―― 序 ――



 そこは、夢と現の狭間にある、昼でも夜でもない場所。
 神仙や鬼神など、人ではないもの達が住まう、生者と死者の世界の境界線にあるといわれる異世界。
             タイチー
 その世界の名は、太極という。
 夜明け前に現れるブルーアワーの時間帯をそのまま凍らせたような、青い光に満たされた世界は見渡す限り岩と緑で覆われており、山水画のような風景が広がっている。                                   たいざん       しょうざん        すうざん                  かざん

 その緑あふれる大地には、東西南北とその中心に五つの山が存在し、東に泰山、南に衡山、中央に嵩山、 西に華山(別名・
こんろんさん     こうざん
崑崙山)、北に恒山とある。
 中国の五岳と呼ばれる道教の聖地である五つの山の名と同一ではあるが、似て非なるものである――。

 


                            こうりさん
 太極の東にそびえる泰山の南方山麓には蒿里山と呼ばれる山がある。             たいざんふくん
 蒿里山には死者の国・冥界への門があり、山頂には太極に十人いる冥界の裁判官の一人、泰山府君の宮殿とその娘であ
     へきかげんくん 
る女仙・碧霞元君の宮殿があった。                                             ふだらくきゅう         じょくん
 その二つある宮殿の一つ、八角の形状をした碧霞元君の宮殿・普陀洛宮の南門から、褥裙と呼ばれる白い華服を纏った女
                                                   タ   ラ
性――この宮殿の主、碧霞元君・多羅である――が三人の従者を伴い現れた。
 多羅が纏っているのは、薄い絹を幾重にも重ねたものに金糸銀糸などで刺繍された上品なもので、薄絹のショールを羽織っていた。
 複雑に結いあげられた黒髪には白金の冠が載せられており、繊細な模様を施されたその冠には瑠璃で北斗七星を模した装飾がされている。
「…………」                                               クジャタ
 門を出たところで、従者の一人である光沢のある乳白色の漢服を纏った黒髪の青年・孔闍陀が皆よりも三歩ほど離れた場所に立ち、多羅に向けて礼をするように片膝を付いた。
 孔闍陀は、穏やかな顔立ちの黒髪の青年だったが、数瞬後――乳白色の大きな牛に変化する。
                      キボウ
 それを見届けた紅い漢服の従者・既望は、手にしていた瑠璃色の天鵞絨で作られた鞍のようなものをその背に載せ――反
                    イザヨイ
対側に回ったもう一人の従者・十六夜と共にそれを白牛の背に固定した。
 その後、鞍が動かない事を点検した既望は主の手を恭しく取り、孔闍陀の前にエスコートする。
 一方、手が空いた十六夜は数歩下がると、肩の辺りで切りそろえられたサイドの髪を両手で耳にかけ、両手をそのまま耳に当てると、耳を澄ますように銀色の目を閉じた。
 彼女がこうして耳を澄ます時だけ表に現れる耳は象のそれに似た形をしており、その大きさは当てられた掌と同じくらいの大きさをしている。
「孔闍陀、よいか?」
 白牛になった従者に多羅が声をかけると、孔闍陀は「はい」と答えて主が腰掛けやすいように更に身をかがめた。
 多羅は既望にサポートされながら、その大きな背に横向きに上品に腰掛ける。
「立ち上がってもよろしいですか?」
 背中に腰掛けた主の重みを感じながら、孔闍陀は自分の背に乗った主を振り仰ぐ。
「よいぞ」
 従者の声に、多羅は了承するようにうなずき、鞍の突起のハンドルにつかまった。多羅のサポートをしていた既望は、それを見届けると数歩下がった。
「動きます……」
 主を乗せた白牛は折っていた膝を戻し、ゆっくりと立ち上がった。
「十六夜、どうだ?」
 主が孔闍陀の背に乗るまでの間、後ろに控えて何かを探るように目を閉じて耳を澄ましていた十六夜に声をかけた。
「異常なし。でも……」
 両手を耳に当てたまま閉じていた目を開け、十六夜は銀月のような瞳を既望に向ける。
「でも?」
「今し方、小さな【蝕】があったようだから――」
「用心にこしたここはない、か」
 十六夜が言おうとした言葉を言い継いだ既望を見、十六夜は頷いた。

 

 太極には【蝕】というものがある。
 日食・月食とは違うものなのだが、大なり小なり【蝕】が起こると、黄泉の世界である冥界や神仙の世界である天界、人間の世界である人界と太極が一時的につながってしまい、どちらか一方かあるいは双方に何らかの弊害が生じる。
 太極の場合、人や物が境界を超えてこちらに来てしまうことが多かったが、『蝕』の影響が人界に及ぼされると、天災による災害が起こる。                                                                   ショクイン
 この【蝕】の原因は色々あるのだが、多くはこの太極の中心、嵩山にある幽玄郷という場所の奥深くで眠る、太古の龍・燭陰が起因していることが多かった。
「しょうがない」
 そうつぶやき、既望は下ろしていた前髪を右手でかきあげながら、紅蓮の炎を宿したような金の目で彼方を凝視した。すると次の瞬間、額に第三の目が現れた。
「何か、あったのか?」
 二人の交わす会話に不穏なものを感じた多羅が問うと、既望は額の目以外の両の目を多羅に向けて答えた。
「【蝕】があったようです」
 それを聞くと多羅は、憂いの表情を浮かべた。
「そうか」
「騒動らしきものは聞こえないので、大丈夫だと思いますが……」
 多羅の憂いを晴らそうと、十六夜が声をかける。
 そのとき、彼方を睨むように見ていた既望の額の目が大きく開いた。
 マレビト      あかもん
「客人が一人、紅門の先に倒れています!」
 彼の目には、山の麓の入り口に当たる場所にそびえる鳥居に似た、紅門と呼ばれる朱色の門の近くの草むらに、Tシャツにジーンズというラフな格好の妙齢の女性が倒れているのが見えた。
「そこへ向かう」
 多羅が声をかけると、既望と十六夜は石畳の地面を蹴り、空に舞い上がった。
「「先行します!」」
 同時に声をあげた二人を見上げ、多羅は了承するようにうなずく。
 既望と十六夜は、麓まで続く蛇のように蛇行してうねる石畳の参道の上を、滑空するように駆けていった。
 二人が目指すのは、今は小さく見える、麓にある鳥居のような形をした朱塗りの門だ。
「我が君、しっかりとおつかまりください」
 孔闍陀が声をかけると、多羅は「うむ」と答え、鞍のハンドルをにぎる手に力を入れた。
 数瞬後、孔闍陀も地面を蹴り、宙空に浮かぶ。
 先に空を駆け下りた二人の紅と蒼の軌跡をたどるように、多羅を乗せた孔闍陀も、空中を風のように駆け下りた。

 

 数分後――。
 蒿里山の麓近くにある紅門の上空まで駆け下りた二人は、いつもなら門を止まり木にするかのようにして門の番をしている
ガ ル ダ
迦楼羅の姿がないことに気付いた。
 迦楼羅は蒿里山の入り口である紅門の門番であり、十王の審理から逃れようと脱走する者を捕縛したり、冥府への侵入者を撃退する役目を担っていた。
「迦楼羅が保護してくれたようだ」
 既望の第三の目が、迦楼羅が客人を両腕で抱えた状態でこちらに向かって歩いてくる姿を捉えていた。
「――そのようね。そこまで来てる」
 十六夜が同意すると、目と鼻の先にある背の高い草むらを掻き分けるようにして、紅蓮の炎を思わせる鮮やかなオレンジ色の大きな翼と――その持ち主である迦楼羅が現れた。
「碧霞元君のところの千里眼と順風耳じゃないか。来るとは思っていたが、早いな」
 迦楼羅は、日に焼けたような浅黒い肌に麻の貫頭衣をまとった、深紅の髪に琥珀色の目をした屈強な男で、翼と同色の羽根に覆われた耳が長い髪の間から覗いている。
 しびきゅう
「紫微宮に向かうところだったのだ」
「そうか。それじゃ、碧霞元君も?」
「ああ。もうじき来られるだろう」
 既望は迦楼羅と会話しながら、彼の腕の中で眠る女性を預かる仕草をしたが、「碧霞元君が来られるまで」と断られる。
「あなた、人型にもなれたのね」                                                    おおとり
 迦楼羅を感心するように見上げていた十六夜は、思わず訊いた。いつも目にしているのは、炎を纏った孔雀に似た鳳の姿だったからだ。
「当然じゃないか。オレはこっちが素なんだぞ?」
「知らなかった……」
 そうつぶやく十六夜の顔が、何故か強いショックを露にしていた。
「それはさておき、ここの門番やっててマレビトと遭遇したのは三度目だが、まさか――」
 客人というのは、何らかの理由で太極へと来てしまった人間のことを指す。
 人が太極に来てしまう現象は本当に稀であり、滅多に起こらない。なので、稀人と呼ぶものもいる。
「客人の保護、よくやってくれた。迦楼羅、礼を申すぞ」
 何かを言いかけた迦楼羅に、今し方到着した多羅が声をかけた。
「礼を言われるほどではありません。【蝕】があったので警戒していたら、この方の気配に気付いただけですから」
 先ほどまでの砕けた言い方が嘘のような、丁寧な言葉使いをして、迦楼羅は客人を抱えたまま礼をする。しかし、多羅は彼の腕の中にいる客人の姿を見て瞠目する。
「!」
「やはり、そうなのですね?」
 驚きを隠せなかった多羅を見て迦楼羅が問うと、うなずいた。
「そなたがそう感じたのなら、そうなのであろう。何ゆえこうなったのかは解らぬが……」
 ショック状態からすぐに立ち戻った多羅は、二人の間で交わされる話の意図が読めず、内心首をかしげていた従者たちを振り返る。
「宮には戻らず、予定通り紫微宮へ向かう。十六夜は先行し、薬師と寝所の手配を」
「御意」
 多羅が指示すると十六夜は両手を胸の前で組み合わせて拱手し、空へと跳んだ。
 十六夜を見送ると、多羅は既望の額の目を見た。
「既望はそのまま警戒を解かずに同行しておくれ」
「御意」
 従者たちに一通り指示を出した後、多羅は迦楼羅を見た。
「客人をこちらへ――」
 多羅は腰掛けていたところを少し後ろにずれて、客人である女性が乗れるスペースを作った。迦楼羅は翼を羽ばたかせると少しだけ浮遊し、抱えていた客人を慎重にかつ丁寧に多羅の前へ、うつ伏せにして乗せた。
「よろしくお願いします」
 神妙な顔つきの迦楼羅に、「うむ」と多羅はうなずき、白牛の従者の背を軽く撫ぜた。
「孔闍陀、落とさぬように慎重に頼む」
「はい」
「――行くぞ」
 多羅の号令で、既望と孔闍陀は石畳を蹴った。多羅たちは中空へ浮かぶ。
「迦楼羅」
 上空から声をかけられ、迦楼羅は多羅を見上げる。
「?」
「このことは父上には内密に頼む。事態を把握した後、事のあらましを直接説明したいのだ」
「了解しました」
 遠ざかっていく一行を見送った迦楼羅は、オレンジ色の翼をはためかせると、いつもの門番の姿に変化し、門の上へと飛び上がった。
「まさか、こんな所でまたお会いできるとは思いませんでした」
 我が君――。
 最後に小さくつぶやき、迦楼羅は一行の姿が見えなるまで見守っていた。

 

 

入口へ戻る             緋色の残影1へ

 

Copyright (C) 2009 Blue Moon Sunset. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system