水のはなし 3 |
雨上がりのすがすがしい空気の中、どこからともなく現れた綿菓子のような入道雲が、虹の橋がかかりそうな青い空を、所どころ覆っていく。
顔や髪に付いていた泥が、太陽の熱で乾いて来るのを感じた友樹は、今自分がどんな状態だったかを思い出し、お堀の水で顔を洗った。
「あー、ちょっとすっきりしたかも」
服も靴の中もドロドロだったので、堀に飛び込んで水浴びしようかと一瞬考えた友樹だったが、それを見越したようにカッパが言った。
「ここ、けっこう深いから落ちないように気をつけてね」
「深いの?」
「うん。そこに見える泥で誤魔化されてるかもしれないけど、たぶん底なしだよ」
「底なし?」
「昔、試しに潜ってみたことがあったんだけど、泥の層をちょっと通り抜けてもなかなか底に着かなくて、諦めて戻ってきた」
カッパの話を聞いた友樹は、脱いだ靴を堀の水で軽くすすぎながらサーッと血が引いていくのを感じた。
(飛び込まなくてよかった……)
カッパが止めてくれなかったらどうなっていたかを想像し、友樹はぞっとする。
その時、不意にポンと何かが弾けるような音がした。
「?」
何の音かわからなくて首をかしげていると、またポン、と近くから音がした。
音がした方を見ると、そこにあったのはお堀を埋め尽くすように葉を浮かべている様々な種類の蓮の葉と、その合間から顔を出した蓮の花だったのだが、その花が音を立てながら次々と咲いて行くのが見えた。
「すごい……」
蓮は、赤・白・ピンク・青・黄・紫の色とりどりの花弁を開いていく。別の一角では、蓮の花のように花開くときに音はしなかったものの、夏の気配を感じた睡蓮が眠りから覚めるように次々と咲き始めていた。
さまざまな品種の蓮と睡蓮が咲いていく瞬間を目の当たりにした友樹は、その光景に目を奪われる。
「トモキ?」
急に黙り込んでしまった友樹を怪訝に思ったカッパだったが、友樹が見入っているものを見て気付いた。
「蓮と睡蓮が咲いてるってことは、もう夏か……」
カッパはつぶやくと、空を見上げる。
さっきまで雨が降っていたとは思えない入道雲がところどころに浮かぶ晴天には、光を増した太陽が輝いている。
「急がないとやばいな。秋が来ちゃうよ……。――ねえトモキ」
カッパは、泥を落とした靴を逆さにして、靴の中の水を出している友樹のセーターの袖をつんつんと引っ張る。
「ん? なに?」
靴の中の水を出しながら、お堀に咲き誇る蓮と睡蓮を見て『綺麗だな〜』と眺めていた友樹は、傍らのカッパを見遣った。
「急ごう。もう少ししたら、嵐が来るよ。だから……」
「嵐?」
「うん。夏って夕立とかあるでしょ?」
「そういえば……」
「その後は残暑とかあるけど、台風とかも来るじゃない?」
「そうだね……」
カッパに説明されて納得しつつ、濡れたままの靴を履きなが友樹は何か変だと感じた。
気が付いた時は桜が咲いていて、その桜が散り始めたと思ったら桜は目の前で葉桜になっていって、雨が降ってきた。
しかもその雨はもう止んで、今は真夏の太陽が空を照らしているけど「もう少ししたら嵐が来る」とカッパは言った。
ここが普通の場所じゃない、というのは友樹も何となくわかっていた。
夢を見ているのかな、とも思っていたけれど、夢とは違う感じがした。
そして生まれる疑問。
「ねぇ、ここってどこなの?」
「幽玄郷だよ」
「ゆうげんきょう?」
「うん。ここはトモキの世界で言う、天国と地獄の境目みたいなところ」
かなり大雑把な説明だったが、友樹は何となく理解できた。
「そんなところに何で僕、いるんだろう?」
「たぶん、今日が【蝕】の日だからかな?」
「しょく?」
「トモキの世界に日食とか月食とかあるでしょ?」
「うん」
月食は見たことがなかったが、日食は最近あったのでどんな現象か友樹は知っていた。
「それに似たのがここで起こると、たまに人間の世界とつながっちゃうことがあって、その時のエネルギーの波みたいなのに巻き込まれるとここに来ちゃうことがあるんだって。だから、トモキはそのエネルギーに巻き込まれて来ちゃったっぽい」
ゲームやアニメの世界の設定でありがちな話をけろりと言われてしまったが、それが本当だとしたらかなりとんでもない内容だった。
「…………」
混乱する友樹。
「あそこに小屋が見えるでしょ?」
そう言ってカッパが指さした場所には――お堀に囲まれた咲耶山と里を結ぶ20mほどある長い石橋の先に――木造の質素なログハウスがあった。
「このままじゃやばいから、とりあえずあそこに避難しよう!」
「わかった」
カッパの口調から、このまま外にいるのは危険らしいと感じ、友樹はその言葉に従うことにした。
「あの小屋、お師匠様の家なんだけどさ」
「お師匠様?」
オウム返しに言った友樹に、うなずくカッパ。
「うん。うさポン先生っていうんだけど」
「うさポン? それって名前なの?」
お師匠様と言っていたのに、『うさポン』という名前にギャップを感じた友樹。
「ちゃんとした名前はあるんだけど、忘れちゃった〜」
師匠なのに、いいのかそれで、と突っ込みたいところだったが、「ま、みんなうさポン先生って呼んでるし」と言っているのでいいのだろう。
やがて石橋を3分の2ほど渡った頃、友樹は『ハスきれいだな』と思いながら、あることに気がついた。
「カッパ君って、歩いてる感じしないんだけど――、もしかして浮いてる?」
橋は石畳なので友樹の靴の音がコツコツと響くのだが、カッパの移動する音がしない。
足は動かしているのはわかるのだが、その短いリーチにしては移動速度がある方だったので、友樹から見ると、亀の歩みみたいな動作なのにそれなりのスピードがあるように感じた。
たとえて言うなら、海の中を泳いでいるウミガメが、地面すれすれの中空でスイスイ泳いでいるみたいな印象だ。
「あ、わかった? 普段はちゃんと地面について歩いてるんだけど、今、急いでるし」
今は省エネモードだからこれはしょうがないんだけど。
最後にぼそりと呟いた言葉は友樹の耳に届くことはなく、そのまま他愛無い会話を交わしながら、友樹たちはカッパが言う『うさポン先生の家』の前に着いた。
入口にある木の台に上がり、カッパが玄関のドアをノックしようとした時――扉が内側から開いた。
「いらっしゃい、カッパくん」
そう言って、扉の向こうから友樹たちを迎えたのは、深緑色のローブをまとった魔法使いのような格好の白いウサギだった。
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