〔 プロローグ 〕


 西暦2000年前後から、環境破壊、環境汚染が叫ばれる中、地球上で起こり始めた異常気象……。
 いくら問題視しても、資源の消費から得られる利便さを捨てられず、自分の首を絞めるように環境破壊と環境汚染はみるみる進んでいった。
 人の手には自然を御することは出来るわけもなく、大型ハリケーンや大寒波などの異常気象がもたらした災害や、新種のウイルスの蔓延で、2050年には人類は著しく減少する。
 同時に、一部の海洋生物を除いて、環境の激変に順応できなかった動物はほぼ全滅――21xx年現在、世界の人口は現在の20分の1ほどになっていた。
 地球温暖化が進んだことで海面が上昇し、大地震による大津波や海面上昇などによる洪水によって水没してなくなってしまった国もあった。
 世界の地図が変わり、世界情勢も変化し、国際連合憲章――通称・国連は世界連合(the World United Nations)へと名前を変え、大洪水でかなりの面積が水没してしまった日本もNIPPONとして連邦に加盟していた。
 激しい異常気象ももはや日常化していたものの、荒れ果てていた世界も安定し、今ではその激動の期間を『トランスフォーム期』と呼んでいる。

 現在よりも、テクノロジーが進歩した近未来。

 その頃――新たな問題が発生していた。
 ある時期を境に、男の子が生まれにくくなっていたのだ。
 研究者の間では、環境ホルモンの影響で生まれにくくなったのだろうと推測されていたが、今では男女比率が10対1……。
 圧倒的に男性の数が減っていた。
 今では、連邦各国の代表が女性であることは珍しくなく、逆に男性の代表は皆無の状態になっており、男の子が生まれた家庭には国家から特別手当が出るほどになっていた。
 ただでさえ、『トランスフォーム期』に人口が激減しているのに、このままでは人類も絶滅してしまうかもしれないという深刻な状況だった。
 各国の首脳たちがその問題に頭を抱えていた時、NIPPONからある提案が出された。
 それは、『アドニス計画』と呼ばれるものだった……。

 


  〔 アドニス計画 〕


 今の東京の高層ビル群が乱立している場所の一角の――かつては東京都庁と呼ばれていた場所。
『トランスフォーム期』に起こった大洪水で、日本の首相官邸や国会議事堂は水没してしまっていたが、東京都庁は一部海水に浸かってはいたものの、奇跡的に残っていた。
 ゴシックの教会をデザインモチーフにしたと言われている旧・東京都庁。
 現在は世界連合の一拠点、NIPPONの支部になっている。
 海水の浸食の影響や老朽化もあり、近々移転することになっているものの、そこの一角にあるラボでは今、先ごろNIPPONから提案されたプロジェクト、『アドニス計画』が進められていた。

 そのラボは、壁という壁にコンピュータの端末が並び、ケーブルが複雑に入り組んでいる部屋だった。その部屋では、リラクゼーション効果のあるクラッシックがBGMで流れていた。
 ラボの中央には、リラクゼーションシートが5台並んでおり、その中の1台には、白いシャツにブラックジーンズという、ラフな格好をしていた長身の青年が眠るように横たわっていた。
 年は22・3といったところだろうか、少し長めの黒髪の青年は、目を閉じてはいたが整った顔立ちをしている。
「…………」
 その青年が横たわるシートの脇にあるデスクで、実体のないフォログラム型のパソコンのディスプレイをにらんでいる白衣の女性が二人並んで座っていた。
 一人は、アジア系の顔立ちの、黒髪を肩のあたりでそろえた聡明そうな20代前半の女性。
 彼女の名は、アリサ・ブレナン。
 もう一人は、派手な顔立ちをしてはいたが、金髪碧眼のアングロサクソン系の20代前半の知的な女性。
 彼女の名は、マリア・ランバート・ヘンドリクス。
 二人ともインカムの付いたサングラスバイザーをつけており、カタカタとキーボードを無心にたたいていた。
「マリア、あとどれくらいかかりそう?」
 アリサが声をかけると、パソコンのディスプレイを見たままマリアは答える。
「もうすぐ終わるわ。――アリサは?」
「私はもうちょっとかかりそう。“アドニス”の様子、見てもらっていい?」
 マリアはパソコンの画面に別のウインドウを開いて、“アドニス”の様子を確認する。
「異常なし」
「ありがとう。これ片付けたら休憩しましょ」
「そうね」
 うなずきながらマリアはデータ入力を完了し、ENTERを押した。
「終わった〜!」
 椅子に座ったまま、バンザイをするように両腕を頭の上に上げて、大きく伸びをするマリアに、間髪いれずにアリサが言った。
「コーヒーよろしく〜☆」
「おっけー」
 マリアはデータのバックアップをとり、かけているバイザーの右サイドにあるボタンを押して、パソコンのフォログラムを消した。
 彼女はかけていた椅子から立ち、バイザーを外して白衣の胸ポケットにそれを挿しながら、ラボの隅に置いてあるコーヒーメーカーの方へ向かった。
「キャラメルでいい?」
 コーヒーメーカーの注ぎ口に、自分とアリサの専用のカップを置きながら、マリアは聞く。
「う〜ん、今日はアーモンドの気分かな」
「了解」
 マリアはコーヒーメーカーのタッチパネルに触れ、出てきたメニューの中から『キャラメル』と『アーモンド』を選び、それぞれ個数を『×1』と設定した。
 シューッ――
 コーヒーメーカーが可動を始め、それぞれのカップにそれぞれのフレーバーのコーヒーが注がれ始めた。あたりに、コーヒーの香りが広がる。
「ねぇ、アリサ」
「なに?」
 アリサはまだプログラムと格闘している。
「このプロジェクトって、“アドニス”って言うより“ピグマリオン”に近いわよね」
「そうね。相手は石像じゃなくて、アンドロイドだけど……。こんなネーミング、誰が考えたんだか」
 少しあきれた口調のアリサに、マリアは「ロマンティックなミューラー局長あたりじゃないの?」と返す。
 アドニスというのは、ギリシャ神話の美と愛の女神アフロディテに愛された美少年の名前で、ピグマリオンというのはアフロディテに傾倒して女神の像を作り、その女神像に恋をしてしまった男の名前。
 その女神像はやがて、ピグマリオンの願いにより命が吹き込まれ、生きた女性となった。
「局長! ありそうだわ……」
「案外、シナリオもそうかもしれないわね。彼女、昔は作家だったらしいし……」
 その時コーヒーが出来上がったので、マリアは両手を伸ばし、それぞれのカップを手に取った。
「お待たせ」
 コーヒーを両手にして戻ってきたマリアは、アリサのカップをデスクの上に置くと、自分の椅子に腰掛けてカップに口をつけた。
「サンキュー。あとちょっとで終わりそうよっ♪」
 コーヒーの香りをかいだせいか、アリサの調子が上がったようだった。


        * * * * * * *


 あの後、ひと段落ついたので軽い休憩のつもりで一息ついたアリサとマリアだったが、二人ともお腹が空くほどプログラムの入力に時間を費やしていたことに気付き、北展望室のカフェバーで遅い夕食を摂っていた。
 平日の夜なら、まばらでもそこそこ人が入ったのだが、日曜の夜だったせいもあるのか、カフェバーは閑散としている。
 ランチタイムには職員たちが殺到して騒がしくなるので、日ごろ利用している場所でも印象ががらりと変わっていた。
「日曜のこの時間帯って、ガラガラなのね」
「そうね。私たちの貸切状態になってるものね……」
 二人は窓の外の景色が眺められる窓側の席を陣取っていたが、今は二人のほかにウエイトレス姿のアンドロイドしかそのフロアにはおらず、食事の合間に二人が交わす会話と、カチャカチャと動かすナイフフォークの音が響くだけだった。
「…………」
 窓の外には、かつて不夜城と呼ばれた新宿の街が広がっている。
 その街並みも、今はほとんど水没しているので、夜景はあまり期待できず、もう不夜城とは呼べない。しかし、少しではあったが、『トランスフォーム期』に残った高層の建物には灯りがちらほら見えていた。
「ミカちゃん」
「はい」
 ミカちゃんというのは、マンツーマンで二人の給仕をしていたウエイトレスの愛称だった。彼女の正式名称は『MI-002KA-001』。アルファベットの部分をとって、MIKA――ミカと、誰が呼び始めたのかは定かではなかったが、いつの間にか皆そう呼んでいた。
「冷たくないお水もらえる?」
「かしこまりました、ブレナン様。薬水ですか?」
「そう。多めにお願い」
「はい。――ランバート様は何かございますか?」
「特にないわ」
「かしこまりました」
 アリサのリクエストに応じるためにバックヤードに消えたミカは、常温のミネラルウオーターを注いだゴブレットをトレイに載せてすぐに戻ってきた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
 アリサはこのカフェに来るときに持ってきたポーチの中からピルケースを取り出し、中に入っているサプリメントを何粒か取り出した。
「マリアも飲む? 今日は徹夜になりそうだし」
「そうね、もらっておこうかしら……」
 マリアはミカを呼ぼうとして口を開きかけたが、さっきまで立っていた位置に彼女の姿はなかった。
「あれ、いない……」
 何かしらの命令がない限り、貸切状態でミカが二人のそばを離れることはないのだが、先にミカの姿を見つけたのはアリサだった。
「誰か、来たみたい」
 アリサの視線の先で、カフェバーの出入り口付近まで移動していたミカが来店者を出迎えていた。
 淡いブルーの、機能性のあるパンツスーツをまとった落ち着いた雰囲気の柔和な顔の女性。セミロングの金髪にゆるくパーマをかけている。
「あれは――局長だわ」
「本当。こんな時間に来るなんて、珍しい……」
 ミカが出迎えたのは、二人の上司であるミューラー長官だった。
 ミューラーも、ミカに誘導されながら先客である二人の姿を認めて、ふわりと微笑んだ。40代前半らしいのだが、実際の年齢よりも10才は若く見える。
「ご一緒してもよろしい?」
「もちろん」
「こんな人気のないところ、局長をお一人には出来ません」
「ありがとう」
 二人に歓迎されたミューラーは空いている席につき、「リゾットとサラダセットで」と、ミカに注文した。
「かしこまりました」
 ミカは水とおしぼりを取りにバックヤードに消えた。
「“アドニス”のメンテはどう?」
「ぼちぼち、と言いたい所ですが、難航しそうです」
 アリサが答えると、ミューラーは複雑そうな表情をした。
「そう……」
「はい」
 三人の間に少しだけ重い空気が漂ってしまった。
 その間、ミカがミューラーの分の水とおしぼりと、サラダセットのサラダを運んできていた。
 ミューラーは片手で頬杖をつき、目を閉じて数秒考える。
「問題はやはり、“感情”かしら?」
「そうですね」
 ミューラーに答えるアリサ。彼女に同意するようにうなずきながら、マリアがそれを引き継いだ。
「今までのプログラムは機能性だけでしたし、“感情”の入る余地はあまりなかったですから」
「そうね。バーチャルはあるけど、それを現実に持ってくるのは難しいかもしれないわね」
「とりあえず、必要だと思われるデータコードは入れたので後は可動させてみるしかありません。テストもその後ですね」
「お待たせしました――。失礼いたします」
 ミカが、お皿から湯気の上がっている熱々のリゾットをミューラーの前に置いた。
「ごめんなさいね、食事中にこんな話して。――料理、冷めてしまったわね」
「大丈夫ですよ、これくらい。今度、甘いものでもおごって下されば」
 おどけたようにアリサが言うと、ミューラーはクスッと笑った。
「わかったわ。考えておきましょう」
 ミューラーの答えに、マリアは意外な顔をし、アリサは「ラッキー☆」と喜んだ。
「局長、冷めないうちに召し上がってください」
「そうね、食べましょう」


        * * * * * * *


 食事を終えてラボに戻った二人は作業を再開し、プログラムの最終調整をしていた。
「マリアはシミュレーションやったことがないって聞いたことあるんだけど、本当?」
「ええ。あまり興味なかったから……」
「そっか……」
 カタカタとキーボードをたたく音が響く――。
 アリサの言うシミュレーションというのは、恋愛ゲームの仮想現実版のことを指した。
 このソフトが原因で男女比に開きが出たのでは、という憶測も一部ではあったが、これだけでは男子の出生率低下の理由にはならない。
 しかし、これが原因で、生身の男性を必要としない女性が出てきたのも事実だった(ゲームは男性版もあるので、人口減少にはさらに拍車がかかる)。
 ゲームの世界に浸ってしまう女性たちは、現実の男性よりも理想の男性を選び、仮想空間で偽りの恋愛ゲームにハマり興じていた……。

「それじゃ、マリアがテストした方がいいのかもしれないわね」
「先入観なしに入れるから?」
「そ」
「…………」
 マリアは口をつぐみ、複雑そうな顔をする。
 彼女の様子の変化に気付いたアリサは、キーをたたく手を止め、かけていた椅子の向きをマリアの方へ変えた。
「気が乗らない?」
「そういうわけじゃないわ」
「そうよね。お兄さん相手に恋愛、出来ないよね……」
 アリサの言うとおり、中央のリラクゼーションシートに横たわるアドニスの顔は、マリアの兄・イリアの顔を写したものだった。
 どのような経緯でイリアの顔が使われることになったのかは不明だったが、イリアは世界中の女性を魅了するハリウッド俳優でもあったので、肖像権などの関係もあって姿をまったく同じにするわけにはいかなかったらしい。
 また、オリジナルであるイリアとの混同を避けるために、アドニスは現在の彼の姿より少し若く、今閉じられている瞳の色や髪の色は本人とは違う色になっている。
「マリアの気持ち考えないで言って、ごめん……」
「気にしないで。このプロジェクトに参加していて、兄の顔が使われることになった時はさすがに驚いたけど、これは仕事だって割り切らないといけないし……」
 この間マリアはずっと、キーをたたく手を止めずにパソコンの画面をみていた。
 彼女の横顔は冷静なものだったので、心の中は窺えず、今度はアリサが口をつぐみ、複雑な顔をした。
「…………」
「こっちの調整、終わったわ」
 そう言って、アリサの顔を見たマリアの表情はいつも通りのものだった。
「どうしたの、そんな顔をして。気にしないでって言ったでしょう?」
「でも……」
 言いよどんでいるアリサに、『私は平気よ』と言わんばかりの顔をしたマリアは言った。
「ノープロブレム☆ さ、早くやっつけちゃって」
「……わかった」
 そう言って、一時停止していた作業をアリサは再開した。

 数分後――。
 プログラムの起動を待つだけの段階になり、アリサの作業を隣で見守っていたマリアは、サングラスバイザーを外してデスクに置くと、アドニスが横たわるリラクゼーションシートの方へ移動した。
 左隣のシートに腰掛けると、マリアはシートに備え付けてあるサークレット状のサングラスバイザーを付け、体をシートに預ける。
「準備できた?」
 アリサに声をかけられ、「出来たわ」と答えるマリア。
「何かあったら言ってね。すぐに停止するから」
「わかってる」
「開始するね」
「了解」
 アリサはプログラムの起動を開始した。
 マリアは目を閉じ――彼女の意識は眠りに落ちていくように、徐々に沈んでいく……。


 仮想現実の世界に入ったマリアは、宇宙空間のような場所に立っていた。
 彼女の目の前には、ゴシック調の重厚な両開きの扉だけがある。
「これが入り口ね……」
 扉に歩み寄り、その扉に手をかけようとした瞬間、扉の方がマリアを招き入れるように内側に開いた。
 扉の向こうには、鏡のように磨かれた白大理石の床、高い吹き抜けの天井――ゴシック調の豪奢なエントランスホールが広がっていた。
 そのホールにマリアが足を踏み入れると、かっちりとしたタキシードをまとった初老の白髪の男性が現れ、マリアを迎えた。
「ご来訪をお待ちしておりました……」
 典型的な執事、という風貌の男性はマリアに微笑みかけ、白い手袋をした右手を胸の前に移動して古風な礼をした。
「私は、この世界の案内人・バトラー。コンシェルジュのようなものと思ってくださいませ」
「よろしく、バトラー」
「こちらこそ、お嬢様」
 そう言ってバトラーは、「お手を、よろしいですか」とマリアに左手をすっと差し出した。差し出された手に、マリアは自分の右手を置く。
 そしてバトラーは、マリアをホールの一角にある待ち合わせ用のアンティーク調の椅子へとエスコートした。
「どうぞ、こちらへおかけ下さいませ」
 すすめられて、マリアは椅子に腰を下ろす。
「まだ、お名前を伺っていませんでしたね。お名前を教えてくださいませんか」
「マリア・ランバート・ヘンドリクスよ」
「それでは、マリア様、少しだけ貴女のことをお教えください」
 そう言ってバトラーは、簡単な質問をいくつかマリアにした。
 それはすべて4択になっていたので、それほど難しいものではなかった。
「ご協力、ありがとうございます。――準備が整いましたので、ご案内いたします」
 再び左手をマリアに差し出し、バトラーは先ほどマリアが入ってきた扉の前へ彼女をエスコートした。
「…………」
 入ってきた扉の前へ案内されたマリアは、質問に答えることで、扉が違う場所へつながったのだろう、と推測した。
「何かありましたら、私の名を――バトラーを、お呼びください」
「わかったわ」
「それでは――」
 バトラーは、マリアの手を取ったまま、空いている方の手で扉をゆっくりと開けた。
「行ってらっしゃいませ、マリア様」
 扉が開くと、まばゆいばかりの光の洪水がマリアを襲った。


        * * * * * * *


 光の渦に飲み込まれたマリアは次の瞬間、光あふれる野外の木陰にいた。
 近くで小川が流れ、水を含んだそよ風が吹き、草の匂いがする。
「これは、在りし日の地球……?」
 心地いい風を受けながら、思わずマリアはつぶやいた。
 緑豊かで穏やかな、マリアにとって写真や映像資料でしか見たことのない田園風景がそこにはあった。
 暖かな光景に目を奪われていたマリアだったが、子供の泣き声がどこかからしてきたので、はっと我に返る。
 同時に、自分の手を取っていたバトラーの姿が消えていることに気付いた。
「感動している場合じゃなかったわ……」
 自分が今、何をしているのか思い出し、マリアは泣き声の主を探すためにあたりを見回す。
 すると、泣き声の主はすぐに見つかった。
 目と鼻の先の、マリアのそばにある木よりも、大きな桜の樹の下――金髪の幼い女の子が、膝を抱えてシクシクと泣いていた。
 泣いている女の子の上では、見事なくらい桜が満開になっており、女の子と共鳴して泣いているかのように、桜は花びらを降らせていた。
「あの子が……?」
 マリアが女の子の方へ足を踏み出そうとしたとき――。
「どうしたの、マリアちゃん。泣いてるの?」
 女の子と同い年くらいの黒髪の男の子が、桜の樹の向こう側から現れ、一人で泣いていた女の子に心配そうに声をかけた。
「フィリップがいじめるの……」
 マリアと呼ばれた女の子は振り返り――男の子の顔を見た途端、さらに顔をくしゃくしゃにして抱きついた。
 抱きつかれた男の子はびっくりした顔をしたが、「うわ〜ん」と声を上げて泣きじゃくる女の子に「マリアちゃん、泣き虫だな〜」と言って、よしよし、と頭をなでであげた。
「マリアちゃん、いっぱい泣いていいよ。マリアちゃんはボクが守るから」
 女の子は頭をなでられて落ち着いてきたのか、次第に泣き止んでいく。
「ごめんね、アドニス」
「いいよ。フィリップが悪いんだから」
「ありがとう」
 さっきまで泣いていた顔が、笑顔になった。
「帰ろ。さっき、マリアちゃんのママ心配してたよ」
「うん」
 二人は仲良く手をつないで、桜の樹の向こうへ消えた。
 それと同時に、満開だった桜は一瞬で消え、緑豊かな葉桜に変化した。
「え……?」
 マリアは自分の目を疑った。
 しかし、いくら凝視してもさっき満開だった桜は今、先ほど見た桜より少し大きな葉桜になっていた。
「あんなに綺麗だったのに……」
 思わず桜の樹の方へ足をのばしたマリアの脳裏に、『あれは、過去の映像……』と、バトラーの声が響いた。
「過去? それじゃ、あれは回想シーンってこと?」
『はい。マリア様は慣れていらっしゃらないようなので混乱されるかも知れませんが……』
 何だかややこしいが、そういうことらしい。
「見分け方とか、あるの?」
『世界がセピア色に見えるときは、回想です』
 そう言われれば今、そんな風に見えたなと思いながら、マリアは「わかったわ……」と納得した。
『止まっていた時間は今、動き出しました。――私はここで失礼します』
「ありがとう、バトラー」
『いいえ。それでは、続きをお楽しみください』
 バトラーが消えた、という感覚がした次の瞬間、マリアは何かがこちらへ近づいてくる音に気付いた。
 音のする方を見たマリアは、白馬に乗った青年がこちらへ向かって来るのを目にする。
「白馬だなんて、ベタな設定……」
 思わず口にしてしまうマリア。
 少し長めの黒髪を風になびかせている青年は、桜の樹の下のマリアを見つけると、マリアに向けて手を振った。
「マリア、ここにいたんだね」
 あっという間に馬はマリアの前に止まり、青年は馬から軽やかに下りた。
「探したよ」
 白馬に乗っていたのは、さっきの男の子を成長させたらこんな感じになるだろう、という感じの青年――アドニスだった。
 馬から軽やかに下りたアドニスは、手綱を手にしてマリアの方へ歩み寄る。
 マリアの方は、アドニスに『探したよ』と言われても、どうリアクションしていいのかわからなかったのだが、彼のアメジスト色の瞳を近くで見上げた瞬間、目と目を通して自分の中に舞台設定のデータが一気に流れ込んできたのを感じた。

〈彼の名は、アドニス。あなたの幼なじみであり、あなたのよき理解者。彼はあなたに好意を持っていますが、想いを告げることでもしかしたらあなたに避けられてしまうかもしれないと、その想いを告げることをためらっています。アドニスは今、あなたの父上であるフレデリック・ランバート・ヘンドリクス氏に頼まれ、あなたを探し迎えに来ました……〉

 目の前のアドニスの設定を、データは簡潔に教えてくれる。
 アドニスは、淡いグレーのフロックコートに立襟シャツとアスコットタイというクラシカルな格好をしていた。
 彼の格好から、この世界はマリアのいる時代よりも遥かに昔の世界を設定していることがわかる。それと同時に、マリアはクラシカルな乗馬服を自分がまとっていたことに気付いた。
「どうしたの、マリア。僕の顔に何かついてる?」
 アドニスは、マリアにじっと見つめられて、何か勘違いしたらしい。少し困ったような、照れた顔をしていた。
 それがマリアにもすぐにわかったので、否定するように首を振った。
「何でもないわ。考え事していただけよ」
「考え事って――あのこと?」
「あのことって?」
 おうむ返しに聞かれ、一瞬しまったという顔をしたアドニス。しかし、意を決したように口を開いた。
「フィリップの話、マリアはもうランバートさんから聞いているんだろう?」
 フィリップと聞いて、さっきの幼いマリアをいじめて泣かせた相手の名だと気付く。

〈フィリップは、あなたのもう一人の幼なじみ。子供の頃、あなたの気を引こうとして、それが裏目に出ているとは知らずに彼はちょっかいを出していました。今は彼も大人になり、当時のことはあなたに悪かったと思っています。そのフィリップは昨夜、あなたの父に結婚を前提としたお付き合いをさせて欲しいと申し出ています。そのことを朝の食卓であなたは告げられ、今後のことを考えるためにこの場所に一人で来ていました……〉

 状況把握のために、頭の中の解説に意識を向けていたマリアは、目の前のアドニスが真剣な顔をして自分を見つめていることに気付いて、内心どきりとした。
「アドニス……?」
「フィリップの申し出を、マリアは受けるの?」
 自分の状況を知ったばかりなので、その問いかけに答えられるわけもなかったが、思いつめたような顔をしたアドニスの瞳に見つめられて、マリアは戸惑った。
「こんなこと聞いて、ごめん。――君を困らせちゃったね」
 苦笑いするアドニス。
 そんなアドニスを見て、マリアは軽い罪悪感を覚えた。
 アドニスは、仮想現実の世界のプログラムにそって、動いているに過ぎない。
 それがわかっていても、彼はアンドロイドとは思えなくなるくらい感情や表情が豊かで、魅力的だった。
 たとえ、アドニスの姿が兄を写したものだとわかっていても――。
「帰りましょう、アドニス。迎えに来てくれたのでしょう?」
 そう言って、話を変えるマリア。
 何でもなかったような顔をしたマリアの表情に、アドニスはほっとしたような顔をしてうなづいた。
「マリア、メリー号は?」

〈メリー号は、あなたの愛馬の名前。この世界では、車の代わりに馬が使われています。メリー号は今、そこから見える場所で草を食んでいます。あなたが名前を呼べば、メリー号はすぐに戻るでしょう〉

 解説の言葉のとおり、目と鼻の先にマリアの愛馬らしき葦毛の馬がいた。
「メリーは、そこで草を食んでいるわ。――メリー、いらっしゃい!」
 マリアの声に反応して、メリー号はこちらに向かって走ってきた。
 戻ってきたメリー号は、甘えるようにマリアに鼻面をすりよせる。仮想現実ではあったが、マリアは馬に触れるのははじめてだった。
 その後、マリアはアドニスにサポートされて騎乗し、アドニスとともにその場を後にする――。


        * * * * * * *


 ホワイトハウスのような、白亜の豪邸――。
 それは、ランバート邸をはじめて目にしたマリアの印象だった。
 鬱蒼と茂る森をバックにたたずむランバート邸は、その世界の設定では彼女の住む家であっても、初めてマリアはランバート邸の敷地へと足を踏み入れる。
「…………」
 森の緑と館の白のコントラストが、美しかった。
 ランバート邸の門をくぐり、手入れの行き届いた庭を並足で進む。
 マリアの頭の中には、このランバート邸の見取り図のデータが入ってきたが、マリアはアドニスの後について行くように馬を進めた。
 やがて、二人はランバート邸の裏庭へと出た。
 そこには二人が来るのがわかっていたかのように、執事姿のバトラーが待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
 執事特有のやわらかい物腰。
 最初に会ったときと印象が少し違っていたが、見知っている顔だったせいもあり、マリアは心なしか安心した。
「アドニス様もお帰りなさいませ」
「待たせてしまったかな、バトラー」
「いいえ、予定通りです」
「それはよかった」
 ほっとした顔をして、アドニスは馬から軽やかに降りた。
「じきにランチの準備も整いますので、シャワーで汗を流されてはいかがですか?」
「そうだね。そうさせてもらうよ」
 バトラーはメリー号に近づき、にこやかな顔を馬上のマリアに向け、彼女の下乗を手伝った。
「お嬢様、遠乗りされてお疲れでしょう」
「お腹はすいてしまったけれど、そうでもないわ」
 そう言って、マリアはおなかが空いていることに気付く。
 仮想現実の世界ではあったが、はじめて乗馬を体験したマリアは、『乗馬はスポーツ』だというのを実感した。
「左様でございますか。それでは、ムッシュにはもっと腕をふるってもらわねばなりませんね」


 その後、マリアは軽くシャワーを浴び、メイドに用意された服に着替えていた。
「やっぱりマリアお嬢様には、淡いブルーがお似合いになりますわ……」
 軽く化粧を施され、清楚な感じの淡いブルーのアフタヌーンドレスをまとったマリアの姿を見て、サリーという名前のメイド頭が感嘆の声をあげた。
『私は、着せ替え人形じゃないんだけど……』
 この服に行き着くまで何着、着替えさせられたことやら、とマリアは内心思っていた。
 その部屋には、サリーのほかにも何人かメイドがいたのだが、みんなマリアを惚れ惚れとした顔で見ている。
 しかし、その中でもサリーは、メイド頭なだけあって、妙なパワーのある女性だった。
 マリア一筋というか何と言うか、この世界の設定だと彼女はマリアの乳母らしいので、必要以上にマリアを着飾らせようとしていたのだが、アクセサリーなどは普段あまり身につけないマリアは、必要最低限に抑えてもらっていた……。
「マリアお嬢様、それでは参りましょうか」
「そうね」
 サリーに先導されて、マリアは衣裳部屋を後にした――。


 サリーに先導されて衣裳部屋を後にしたマリアは、階下の食堂へと移動しようとしたのだが、サリーは食堂とは違う方へマリアを誘導しようとしていた。
 建物の中の部屋の配置が、すでに頭の中にあったので、マリアは口を開いた。
「サリー、食堂はそっちじゃないわ」
 彼女にそう指摘されると、サリーは間違いじゃありませんよという顔をした。
「本日はお天気がよろしいので、旦那様がランチはテラスの方でとおっしゃいましたので」
「そういうこと……」
「はい」
「確かに、いいお天気ですものね……」
 さっきまで遠乗りしていたマリアは、初夏のすがすがしい空気を思い出した。
 広くて長い廊下を抜けると、白を基調としたテラスへ出た。
 少し薄暗い建物の中から、明るい野外のテラスへ出たので、正午過ぎの外の明るさに思わず目がチカチカしてしまう。
「…………」
 仮想現実の世界なのに、感覚の方もリアリティーがあるので、マリアはこれも現実なのではと錯覚を起こしてしまいそうだった。
 その、目的の場所にはすでに先客がいた。
 あの後、別室でシャワーを浴びてさっぱりとしたアドニスと、後ろ姿の年恰好からして、マリアの父に当たるフレデリック氏とマリアの母と思われる人物。
 三人は、白を基調としたテラスの椅子に腰掛け談笑していた。
 サリーに連れられてテラスへ現れたマリアに、アドニスが先に気付いた。
「マリア……」
 綺麗だ。
 アドニスのつぶやきは、マリアには聞こえなかったが、彼が何を言ったのかはわかってしまったので、照れてしまう。
 アドニスは見とれるようにマリアの姿を瞳に捕らえながら、彼女をエスコートしに椅子からすっと立ちあがった。
 彼の行動を追うように、フレデリック氏と隣の婦人が振り返る。振り返った二人を見て、マリアは目を見張った。
「!」
 アドニスと共に待っていたフレデリック氏と婦人の姿が、すでに亡くなっているマリアの両親のものだったからだ。
「マリア?」
 驚きで、その場に立ち尽くしてしまったマリアを、怪訝そうに見るアドニス。声をかけられて、はっとするマリア。
「なんでもないわ……」
「そう?」
 心配そうな顔をして、手を差し出すアドニス。マリアは促されるままに、その手をとった。
「大丈夫」
 びっくりしただけだから。
 その言葉を飲み込んで、マリアを待つフレデリック夫妻のもとへ向かった。
「お待たせしました……」
 空いている手でスカートのすそをつまみ、二人に古風な礼をする。
「待ちかねたよ、マリア」
 二人はにこやかな微笑で、それに答えた。
 マリアは用意された席に着き、続いてアドニスも席に着いた。
「バトラー、始めてくれ」
「かしこまりました」
 フレデリック氏に声をかけられたバトラーは、他のメイドに食事開始の指示を出してランチの用意を始めた――。


 青々とした絨毯のような芝生と、手入れが行き届いた庭木を望む、広い敷地のランバート邸。
 ヴァイオリンの生演奏を聴きながらの、優雅でゆったりとしたランチを過ごしたマリアは、食後のコーヒーを口にしながら、これが現実だったら良かったのに、と思っていた。
「…………」
 目の前には、十年前に事故で亡くなった両親と、外見年齢と髪や瞳の色は異なっていたが、兄の姿を写したアドニスがいる。
 マリアにとっては久々の、『家族』がそろった団欒の時間だった。
「ランバートさん、大事なお話があるのですが、よろしいですか?」
 コーヒーカップをソーサーに戻しながら、アドニスが意を決したように切りだした。
「大事な話……。ここには妻や娘がいるが、同席でも構わない話なのかな?」
「はい」
「何だね?」
「マリアのことで……」
「マリアのこと? それはもしや……」
 アドニスは、先ごろフィリップがランバート氏に申し出た話を持ち上げ、自分もその候補に加えてもらいたい、という話をする。
「…………」
 自分のことが話題になっているのにもかかわらず、その会話はマリアの耳には届いていなかった。
 話しながら、心ここにあらずという状態のマリアに気付いたアドニス。
「……マリア?」
 アドニスに呼びかけられて、マリアは心配そうな顔をした彼の瞳に出会う。
「泣いてるの?」
「え……?」
 そう言われて、マリアははじめて自分が涙を流していることに気付いた。
 気付いた瞬間、涙がぼろぼろとあふれて来て――止まらなくなる。
「マリアお嬢様?」
 マリアの異変に気付いたサリーが駆け寄り、ヴァイオリンの生演奏も止まった。
 同席している両親が困惑しているのが、マリアにもわかった。
「アリサごめん、この世界に入り込めないわ。引き上げてもらえないかしら?」
 涙をぬぐい、マリアは外のアリサに呼びかけた。
「マリア?」
 何を言っているのかわからない、という表情のアドニス。
「アリサ、お願い!」
 マリアの懇願が聞こえたのか、数拍置いた後、アリサの声が空間に響いた。
『わかった。――今、システム解除するわ』
「ありがとう」
 次の瞬間、周りの映像がすべて消え――マリアは最初に訪れたエントランスホールに立っていた。
 彼女の目の前には、案内人のバトラーの姿があった。
 システム解除、といっても外に出る『手続き』をしなくてはいけない。
 強制終了をするにしても、システムの損傷を防ぐためにデータを保護しなければならなかった。
「マリア様、お気に召しませんでしたか?」
 外へ出る手続きを済ませたマリアにバトラーが問いかける。
「そういうわけじゃないわ。ただ……」
「ただ?」
 マリアが口を開こうとしたとき、アドニスがテラスのある方向から駆け込んできた。
「マリア!」
 取り乱した感じのアドニス。マリアが突然姿を消したので、ここまで走ってきたらしく、肩を上下させている。
「アドニス……」
 意外と激しい面を持っていたアドニスに驚きながら、そういえば、このエントランスホールはランバート邸の一部だったとマリアは気付いた。
 マリアを見つけて、彼女のもとへ駆けつけようとするアドニスを、バトラーが止めに入った。
「アドニス、いけません! 転送はすでに開始されています!」
 バトラーの言うとおり、マリアは自分の意識が元の世界へ帰ろうとしているのを感じていた。
「ごめんね、アドニス……」
「マリアーーーっ!!」
 マリアの名を叫ぶアドニスの声が遠ざかっていくのをマリアは聞いていた……。

 

 

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